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これまでの放送内容

2012年3月25日(日)

大災害時のリーダーシップ ~沖縄で神様と呼ばれた男 十一代齋藤用之助~

【ヒージャー郡長・十一代齋藤用之助】

代々襲名を続けてきた齋藤家。その祖先は「葉隠」にも名前が残る旧佐賀藩士。用之助(本名・安一、1859-1933)が佐賀から沖縄へ渡ったのは1879(明治12)年のこと。初代沖縄県令(知事)が佐賀の肥前鹿島藩藩主であったため、多くの佐賀人が沖縄の県政を充実させるために海を渡った。

用之助はその中のひとりとして下級警察官で採用された。当時琉球王朝とその歴史・文化を明治政府に潰された沖縄県民は、本土からの為政者の仕事に対して冷たい視線を送っていた。そんな中、葉隠の心(死に物狂いで生きる)をモットーに、庶民目線で積極的にウチナンチュの中へ溶け込み尽くしていった用之助。その誠実な仕事ぶりは次第に沖縄の人々の心を捉え、1898年(明治31年)には那覇を含む沖縄本島の南半分と、離島の全てを管轄する島尻郡長という要職に就いた。行政トップに立った後も巡査で培った庶民感覚は失うことなく、沖縄の教育や産業の充実を強力に推し進め、郡民の支持を獲得していった。

【島民の「心」も移住。「多数決では決められない」】
1903(明治36)年4月。沖縄県の孤島・硫黄鳥島が大噴火し、700人近い島民が生命の危機に直面した。当時、十一代用之助は島民の意識調査をするが、多くの賛成のなかにも故郷を捨てて移住することに戸惑う島民もいた。そこで用之助は多数決をとらず、移住に反対したり不安視する島民ひとりひとりの意見を聞き、納得のいくまで話し合いを繰り返した。しかも、日露戦争直前という国難の中、政府から巨額の移住費補助をとりつけ、移住予定地の久米島には住む家も生活も確保した。強大な明治政府の下、島民の意志にかかわらず強制的に移住させることも可能だったこの時代にもかかわらず、家畜や家財道具のみならず、墓や島民の心である御嶽まで移住させると提案した。その結果、全ての条件を整えて開かれた島民大会において、移住は全員一致で決定された。

108回目を迎える今年2月11日の久米島字鳥島移住記念祭。大恩人に感謝し、その想いを子孫に引き継ぐために地区では盛大にお祭りを行った。【大災害時のトップのリーダーシップとは、そして沖縄と佐賀の新たな交流が…】
明治期に十一代齋藤用之助が示した「退路を断って住民の生命を守り抜く」というリーダーシップ。その功績は3.11を経験した現在の日本社会に、大きく問いかけている。

そして今年、十一代が大切にした「教育」を通じて沖縄と佐賀の交流が動きだした。

制作局サガテレビ(STS)

次回放送内容

OA:2025.12.07(日)

戦後80年、今年も終戦の夏を迎えた。熊本県八代市坂本町鮎帰(あゆがえり)にある西福寺(浄土真宗本願寺派)の山本隆英住職(87歳)は、その節目にちなんで或る企画を進めていた。夏の法要と合わせて行う戦時資料の展示会だ。布教本、聖典、教団からの手紙、さらに旧陸軍省からの感謝状などお寺に残されていたものだ。この中で、往時の軍国主義を窺わせる象徴的なものが在る。紙芝居の中で、お寺の副住職に赤紙(召集令状)が届く場面は『天皇陛下のお召しだったのであります』と紹介されている。戦意高揚を謀り、教団が国にがんじがらめに宗教統制されている様が垣間見える。戦争を賛美する資料の数々、山本住職は展示会でこれらと戦没者の家々を回り撮り溜めた遺影を紹介した。お寺に法要に来た門徒らは悲痛な面持ちでムラの戦争を感じ取っていた。満州事変に始まり日中戦争から太平洋戦争へと突き進んだ日本は、この十五年戦争で約310万の国民が犠牲になった。ムラでは105人が戦死したと云う。兵隊の命は“一銭五厘”と言われ、ハガキ(召集令状)の値段と同じ値打ちしかないと軽視されたのである。あの戦争から80年、日本人は何を学んだのか。終わりが見えないウクライナ紛争や台湾をめぐる情勢など、世界各地で平和が脅かされている。日本人の誰しもが願っているのは、日本が再び戦争への道に向かわないことだ。番組は、国策に抗うことなく戦争協力していった教団の過去の事実に目を向け、懸命に反戦を唱える山本住職の一念に迫る。

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