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これまでの放送内容

2010年8月15日(日)

シマの芽吹き

沖縄を代表する版画家、名嘉睦稔。

彼のデザインする巨大建造物「AKARA」は、沖縄の伝統的な「赤瓦」や、季節の到来を告げる「風」をイメージしたデザインが盛り込まれている。

風を走らせる通りに、大きくうねる巨大な瓦屋根など「AKARA」建設は、設計の段階から困難が予想された。プロジェクトのプランニングを担当するのは、デザイナーである名嘉睦稔の息子、名嘉太一。「AKARA」完成を目指す親子の物語。

制作局沖縄テレビ放送(OTV)

2010年8月8日(日)

多国籍合宿 ~鹿児島発・国際交流への挑戦~

毎年鹿児島でユニークな国際交流イベントが開かれている。 その名は「多国籍合宿」。 文字通り、様々な国の人々が一つ屋根の下で一泊二日の合宿を行い、勉強会や討論会を繰り広げる。

10回目の開催となった今年は、過去最多の480名が参加し、充実した内容で行われた。
番組では、実行委員長の小川裕也君をはじめスタッフに密着。
準備から本番までの3ヶ月を追った。

制作局鹿児島テレビ放送(KTS)

2010年8月1日(日)

再び桜の咲く頃に ~農業研修生たちが学んだ1年間~

農業の担い手不足対策が急務な中、熊本独自のJA農業インターン事業で今年は約40人が新規就農を目指し研修を受けています。

しかし研修生は不況の影響でリストラにあった派遣従業員はじめ、年齢も経歴も様々、そんな研修生を見守るのが指導員の内田敬助さん61歳です。

全くの素人が就農を目指す難しさ、途中4人の辞退者も出る中、春からの就農を目指し奔走する指導員内田さんと、研修生たち、そして、研修生を受け入れている農家の1年間を追いました。

制作局テレビ熊本(TKU)

2010年7月25日(日)

ながさき市場物語

長崎県長崎市。長崎市内には多くの市場があります。昔ながらの対面販売で、どことなくホッとする場所です。

そんな市場の風景も大型店舗やコンビニの進出で変わりつつあります。お客さんと店主が笑い合う場所、そこには新たな息吹も生まれようとしています。

野菜から鮮魚まで揃う店、元気村。

店長を務める古賀桃歌さん(28)は、3年前に実家の青果店を継ぎました。対面販売による商売、そこに桃歌さんは魅せられ、昔気質の父親とぶつかりながらも、新しい提案を出し続けています。一方で、数年の間に姿を消そうとしている大黒市場。昔ながらのお客さんへの配達で、地域に根付いている館内市場。番組では、そうした市場の風景を眺めながら、市場の良さを見つめ直します。

時代とともに姿を変えながらも買い物客の社交場・市場には、温かな時間が流れています。

制作局テレビ長崎(KTN)

2010年7月18日(日)

ロックンロールの真っ最中 伝説のロックバンド「サンハウス」復活の物語

1970年代、福岡から日本の音楽を変革しようと奮闘した若者たちがいた。 バンドの名前は「サンハウス」 彼らの音楽は革新性に満ち、当時の最新のブルースやロックを貪欲に取り入れ日本語のロックとして成立させていった。

折りしも、寺山修司、唐十郎、美輪明宏…アングラな芸術表現が花盛りだったが…
同様に彼らの日本語による独特の歌詞は、巧みな比喩で、聴く者たちに巧妙な罠を仕掛けることにより、ロックらしい猥雑で胡散臭さを撒き散らしていた。

しかし、順風満帆に見えたバンドも…活動時間は短く、残したアルバムは2枚のみ。
伝説のバンドとして人々の記憶の中に深く刻み込まれることとなり、今でも、サンハウスを尊敬するミュージシャンが数多くいるという。メンバーたちは、それぞれの人生を歩んでいく中で、ほとんどが還暦を過ぎた今、2010年に再結集することとなった。
彼らは、決して、昔を懐かしむわけでもなく、長く遠回りをしながらもかつていただいた夢に向かって一歩を踏みだしたのだ。

番組では、ドラマーの坂田紳一さんとリズムギターの篠山哲雄さんを中心にそれぞれの日常と、再結成のリハーサルから全国ツアーまでを密着し、メンバーたちのバンドに対する思いやこれからを切り取っていく。

制作局テレビ西日本(TNC)

次回放送内容

OA:2025.08.17(日)

太平洋戦争末期の1944年、地上戦が迫っていた沖縄。国は、戦闘の足手まといになるとして、沖縄の子どもたちを九州へと移動させる「学童疎開」を推し進めました。親元を離れ、九州各県へと向かった子どもたちを待ち受けていたのは貧しい暮らしでした。当時の記憶を次の世代につないでいくために、去年、沖縄では学童疎開を追体験する研修が企画されました。県内の小学5・6年生が参加したなか、特別な想いを抱いて研修に臨んだのが眞榮城百恵さん(11)です。百恵さんのひいおばあちゃん、糸数裕子さん(享年97)は学童疎開の引率教師として、終戦まで宮崎に身を寄せ苦労の日々を送った体験がありました。ひいおばあちゃんの過去や当時の子どもたちのことを知りたいと、百恵さんは宮崎の地を訪れたのでした。

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