ページトップ
TNCメニュー

これまでの放送内容 -テレビ熊本(TKU)-

2010年8月1日(日)

再び桜の咲く頃に ~農業研修生たちが学んだ1年間~

農業の担い手不足対策が急務な中、熊本独自のJA農業インターン事業で今年は約40人が新規就農を目指し研修を受けています。

しかし研修生は不況の影響でリストラにあった派遣従業員はじめ、年齢も経歴も様々、そんな研修生を見守るのが指導員の内田敬助さん61歳です。

全くの素人が就農を目指す難しさ、途中4人の辞退者も出る中、春からの就農を目指し奔走する指導員内田さんと、研修生たち、そして、研修生を受け入れている農家の1年間を追いました。

制作局テレビ熊本(TKU)

2010年6月26日(土)

73歳 白球を追う ~夢はチームメートと共に~

鳥栖市の鎌田勝子さん73歳。 ソフトボールのクラブチーム「鳥栖エンジェルス」の監督である。

就任早々の2007年には、佐賀県チャンピオンに導いた。鎌田さんの球歴、それは女子野球で始まる。

1950年代から70年代にかけ、西日本を代表する強豪として名を馳せた社会人の女子野球部に在籍。強肩強打の中心選手として活躍すると共に、キャプテンとしてもチームを引っ張り、日本選手権で5年連続優勝という金字塔を打建てた。女子野球からソフトボールへ、鎌田さんは還暦を過ぎるまでエンジェルスで現役を務めた。引退後、当時のキャプテンから監督就任を懇願される。その熱意に負け、指導者としてグラウンドに残ることになった。

制作局テレビ熊本(TKU)

2010年3月28日(日)

ノーリミット ~1型糖尿病のエアロビックチャンピオン~

熊本大学大学院2年の大村詠一さん(23)は一昨年、1分45秒の演技で芸術・技術・難度を競う表現スポーツ・エアロビックで日本チャンピオンになりました。

8歳の時に1型糖尿病を発症し、現在も1日5回のインスリン注射が欠かせません。
そして、日本各地で啓発活動を行い、「病気は個性です」と語り続けています。

今年春、大村さんは大学院を修了します。
一時は教師と決めていた進路を変え、選手生活を続けながら、啓発活動に専念することに決めました。主治医の南昌江医師は「病気だからといって、出来ないことはないんです。限界なんてないんです。『ノーリミット』という言葉を胸に生きてほしい」と語ります。
大村さんは多くの人たちに影響を与えています。

阪神タイガースの期待の左腕・岩田稔投手(26)は高校2年生の時に1型糖尿病を発症。プロ野球選手という夢をあきらめかけた時に大村さんと会い、野球を続け、スター選手の仲間入りを果たしました。番組では大村さんの全日本選手権大会や1型糖尿病の啓発活動に密着し、病気とともに生きる姿を見つめます。

制作局テレビ熊本(TKU)

2010年1月31日(日)

ノーリミット ~1型糖尿病のエアロビックチャンピオン~

熊本大学大学院2年の大村詠一さん(23)は一昨年、1分45秒の演技で芸術・技術・難度を競う表現スポーツ・エアロビックで日本チャンピオンになりました。

8歳の時に1型糖尿病を発症し、現在も1日5回のインスリン注射が欠かせません。
そして、日本各地で啓発活動を行い、「病気は個性です」と語り続けています。

今年春、大村さんは大学院を修了します。
一時は教師と決めていた進路を変え、選手生活を続けながら、啓発活動に専念することに決めました。主治医の南昌江医師は「病気だからといって、出来ないことはないんです。限界なんてないんです。『ノーリミット』という言葉を胸に生きてほしい」と語ります。
大村さんは多くの人たちに影響を与えています。

阪神タイガースの期待の左腕・岩田稔投手(26)は高校2年生の時に1型糖尿病を発症。プロ野球選手という夢をあきらめかけた時に大村さんと会い、野球を続け、スター選手の仲間入りを果たしました。番組では大村さんの全日本選手権大会や1型糖尿病の啓発活動に密着し、病気とともに生きる姿を見つめます。

制作局テレビ熊本(TKU)

2009年12月13日(日)

こどもたちへ ~配達人 樋口了一~

ブラジルから届いた差出人不明のメール。老いた親が、あるがままの自分を受け止めて欲しいと子供に綴った手紙。

シンガーソングライターの樋口良一さんは、このメールにメロディーをつけ「手紙」という曲を作り、CDの発売にあわせて生の手紙を届けるライブをはじめた。

介護施設を中心にライブの依頼は300件を越え、これまでに40ヶ所以上で無償のライブを届けたきた。番組では無償のライブを続ける樋口さんの想いと、手紙という曲に希望や勇気を見出した様々な境遇にいる人々を見つめる。

制作局テレビ熊本(TKU)

次回放送内容

OA:2026.09.13(日)

 菊池恵楓園所者自治会の太田明副会長は今年1月、園内にかつて存在した野球チーム『オール恵楓』のユニホームを復刻した。それは園の憧れの的だった若者たちが着ていたものだった。園内で野球が盛んになったのは1930年で、居住区別の3チームと職員チームによる対抗戦が始まった。国による強制隔離が進み、いわゆる「患者狩り」に拍車がかかった結果、比較的症状の軽い高校生やノンプロ選手が入所したからといわれている。園内選抜チーム『オール恵楓』は1952(昭和27)年9月、トラックで初の県外遠征試合に出発。無断外出は厳しく処分されるおそれがあったが、患者たちは「園外で試合がしたい」と秘かに鹿児島県鹿屋市にある国立療養所星塚敬愛園の自治会と手紙をやり取りして、試合をする段取りをつけていた。トラックの荷台に布団を敷いて揺れに耐え、途中の道で警官に見つかった。運転手が「らい患者を輸送中だ」と偽ったところ、警官は「この道を通ったらいかん。山の中を通って行け」と蔑んだという。一行は約12時間かけて、星塚敬愛園に到着。1週間滞在して4試合を行い、2勝2敗だった。メンバーで一番若く補欠だった田中照幸さんは当時を懐かしく振り返った。一方、入所者自治会の太田明副会長は『オール恵楓』鹿児島初遠征の1952年、小学2年生のときに入所し、大いに野球を楽しんだ。そして、岡山県の国立療養所長島愛生園にかつて存在した『邑久高校 新良田教室』に進学し、野球部に所属。1960(昭和35)年夏、野球部は「俺達には修学旅行がないから、高校時代の思い出をつくろう」と園に「里帰りする」と偽って外出し、東日本5カ所の療養所を列車で巡る遠征試合を敢行した。園からの帰還命令を無視した大冒険に、太田さんは「あんな痛快で、開放感を味わったことはない」と振り返る。太田さんは恵楓園で野球が盛んだったことをを知ってもらおうと、恵楓園の一部施設跡地に2021年に開校した合志市立合志楓の森中学校野球部の部員と『オール恵楓』復刻ユニホームを着て、キャッチボールを楽しんだ。番組では、ハンセン病患者たちがいわれなき差別の中で見出した希望と情熱の日々を見つめる。

年別アーカイブ

制作局

  • LINEで送る
ページの先頭へ